抵抗感の所在とその深部へ
『脚光の中のゲノム編集(Part1)』では、ゲノム編集に対する抵抗感の所在が「ゲノムを編集する行為そのもの」にあるとしました。
生命の根源に関わる技術の何を問題とし、抵抗感の所在となりるのかその深部を議論していきます。
見えてきたのは、次の7テーマです。ここで想起される問題と危険性が抵抗感として作用し、ゲノム編集を素直に受け入れがたい技術にしていると考えました。
1.人による編集行為 2.多様性への影響 3.改変スピードの高速化 4.誰でもできる 5.社会的な性急感 6.選択の自由 7.価値観の変容
この深部への議論もまた、長文になってしまいましたので(笑)、Part2では①人による編集行為~④誰でもできるまでを「生命進化に与える影響」とし、記事を分けたPart3では⑤社会的な性急性~⑦価値観の変容までを「人間性に与える影響」として議論していきます。
①人による編集行為
まさに全否定的な発言ですが(笑)
「神への冒涜だ!」などと叫ぶつもりはないのですが、生命の根源、核心とも言えるゲノムを、思いのままに編集出来るという状況そのものに、人体及び環境への安全の問題云々を越えて、強い抵抗感を抱きます。
なお、ゲノム編集という技術そのものに、善悪なども含め倫理があるとは考えていません。倫理は、ゲノム編集の捉え方や、行使した先に生じるものだと考えています。そのため、ゲノム編集技術そのものを悪として否定するつもりはありません。
しかしながら、人とは、必ず過ちを犯すものではないでしょうか?というよりも、どんなに善だと思っていても、見方を変えれば悪になっていたということは、往々にしてありますし、逆もまた然りです。
そんな全能ではない人が、生命の根源に手を加え、過ちであった場合にもたらされる結果が何を意味することになるのか、それだけでも直感的なリスクの大きさを想起させ、抵抗感が生まれます。
では、そのリスクとはどの様なものなのか?まずは良く論じられている生物多様性への影響から議論を進めていきます。
②生物多様性への影響
ゲノム編集によって改変された生物が、自然界に放たれた場合の生物多様性への影響を問題視する考え方です。少し想像しただけでも安全性の担保についてなど不安になり、抵抗感を覚えるテーマです。
マラリアを媒介する蚊をゲノム編集によって絶滅させるというアイデアなどには、ギョッとさせられたのを思い出します。マラリアの媒介者を絶滅させることで助かる人の命があることに意義は感じますが、自然の生態系に対して本当に不都合が発生しないと言い切れるのか、心配になる試みだと感じました。
ゲノム編集による生命は、外来遺伝子を組み込もうが組み込むまいが、人が手を加えてゲノムを改変させる以上、自然発生的に誕生した生物とは異なります。
言うなれば、人工改変生物ということになります。
再編集された生物は、存在する空間や環境に対して、多かれ少なかれ、良くも悪くも何らかの影響を与えていくことになります。
当然のことではありますが、多様性への影響とは、ゲノム編集された生物に限ったことだけではありません。そもそも、「存在する」とは、それだけで何らかの影響を与えるものだと考えています。
地球上の自然生態系は、多様な生物種の複雑な相互作用によって成り立っています。複雑さと多様さによって、ある程度の変化には耐えられる柔軟性を持っています。
一方、人類の行い方一つで、修復困難な状況にまで追い込むことが可能なことも事実です。
日本の原風景的な里山が、人が自然と上手く調和しながら生活するための機能を有していた一方、ハブとマングースの問題のように、生態系に破壊的な影響を及ぼす例も多々あります。
人が人として生きる以上、人が人として心地よく住みやすい環境を求めることに異論はありません。しかし、その欲求を行動に移すとき、安全性を問うだけでなく、そもそも必ず影響を与えるということをまず認識する必要があると思います。
その上で、ゲノム編集に目を向けた場合、その改変スピードの効率化には、問題性を感じるようになりました。
③改変スピードの高速化
ゲノム編集による改変スピードの高速化は、特質すべき特徴と考えています。
例えば、これまで農林水産業において数十年と掛けてきた品種改良の期間がゲノム編集によって数年、数ヶ月で行えると言われています。これは、開発コストが減るだけでなく、人が有益と考える品種を直ちに市場に送り出すことも可能になるということになります。
一方で、その高速化を素直に喜んで良いのかという疑問が生まれるのです。
今まで要した時間の意味も考える必要があるのではないかという疑問です。
Mauerは、ダーウィンの「進化論」的生命観を支持しています。
その上で、現在私たちが目にすることが出来る多様な動植物に支えられた自然の生態系は、地球における自然環境の諸条件の下、生存し続けるために、自然発生的に変異を繰り返しながら適応することで成り立っている生態系だと考えています。
それは、「変異の頻度」についても同様で、生物の設計図であるDNAは、地球特有の環境条件及び変動に耐え、持続的に蔓延るために適した頻度で変異を許すようにも設計されているのではないか?変異の頻度という時間軸においても最適化されて成り立っている可能性があるのではないかとも考えられるのです。
これを速める行為というのは、地球上の生命がこれまで経験したことのないレベルで変異することを意味します。思慮に欠く行いが、想定外の過ちを招くというような話は良くあります。
改変スピードの高速化を手放しで喜べないのはここにあります。安易な人間の都合や倫理観だけで、踏み込むには見えていない課題が多すぎるように思われるのです。
そして安易さという意味で、「誰でも出来る」ほど簡易化の道を辿るゲノム編集技術がもたらす負の面に対する危惧も自ずと想起させます。
④誰でも出来る
「DIYバイオ」という言葉が登場するようになりました。
個人がガーレジレベルでゲノム編集する時代にもなって来ています。
アメリカでは、過激な「バイオハッカー」として有名なジョサイア・ザイナー氏が2016年に細菌のDNAをクリスパーで編集出来るキッドを140ドルという安価な価格で販売を開始しました。
$140のゲノム編集キッド紹介動画DIY Bacterial Gene Engineering CRISPR Ki - 検索 動画
当然、ガレージで行うゲノム編集に対して危惧する声もあり、それは当事者からも発信されています。
COURRIER JAPONの2021年10月9日の記事『遺伝子操作で誰もが「生物兵器」を作り出せる脅威とどう向き合うべきか』より、遺伝子操作をする「ガレージ科学者」であるオーストラリアのポール・ダブラウ氏の懸念は恐ろしく、抵抗感を駆り立てます。
――――――ダブラウがなによりも心配するのは規制の手落ちだ。彼は何年も前から当局やジャーナリストに対し、自分のようなアマチュアの能力が高まっていると注意喚起してきた。
『遺伝子操作で誰もが「生物兵器」を作り出せる脅威とどう向き合うべきか』COURRIER JAPON.フィナンシャル・タイムズ(英国)の記事翻訳.2021-10-9.
現在、趣味の範囲で実験を楽しむ人でも、DNAシーケンスの技術を得られるようになっているが、それを使って致死性の病原菌が自家培養される恐れがある。たとえば自然発生する牛痘や他のワクチンの誘導体から、天然痘を作り出すことも可能だ。
「バイオテロを企てる人間が秘密裏に生物兵器を作ろうと思えば、中古の自動DNA合成装置を2000ドルで購入できます。全行程にかかる費用は全部で1万ドルほどですし、全て自宅のキッチンでできます」
速くできるだけでなく、誰でも容易に出来るとなると、これを行う人の倫理観はより問われる必要があるはずです。
生命進化へ与える影響
生命進化の価値
水川達雄氏の著書『ゾウの時間、ネズミの時間』では、サイズという視点から、生物が獲得した「デザイン」の意味を説いていき、不偏と考えている時間でさえ生物によって異なることを教えてくれるのですが、現存する豊かな生態系を支える多様な生物種に対して、彼らが獲得するに至ったデザイン及び能力の必然性と完成度の高さに感動を与えてくれます。
であるならば、生命進化の末端で、人類が得てきた有益と思える能力だけではなく、不便だと感じる能力でさえも、そこに行きついた意味というか理由があるのではないかとも考えてしまいますし、例えば、生殖能力を獲得し、自立を果たした子を残せば、親世代は不要になるはずですが、人の場合は、子から2世代前の老人まで生き、ようやく寿命を迎えることの理由もあるのではないかと考えるに至るのです。
生命進化の末端で、現存する多様な生物種が行き着いているデザインの価値について十分に評価仕切れているのか?ゲノム編集への期待感や急展開に揉まれるなかで、心の片隅に思うときがあります。
生命への責任
人類は社会性を営む上で「責任」という価値基準を重要視していると考えています。
①~④の議論を通して思うところは、新たな責任の発生です。
自然の摂理の中にあった生命の設計図は、ゲノム編集によって人の手へと渡ろうとしています。
人が設計図を手にし、変更を加えれば、責任が発生するでしょう。そして、その責任の帰属先が自然から人類へ移されることを意味していると思われます。
そんな重責を、人は背負えるものなのでしょうか?
わざわざ問題を作り、苦しむ方向へと進んでいるようにも見えなくはないように思うことがあります。
人の視点
古来から続く選抜育種にしろ、交配・交雑、そして放射線や化学物質を利用した品種改良にしろ、生命の設計図を変質させていくという意味では、ゲノム編集も変わらないと理解できます。
もっと言えば、外来の遺伝子を導入しようがしまいが本質的には変わらないのではないか。
人類にとって問題となるのは、その変化の度合いが大きすぎた場合の反動の大きさだけで、人の視点から外れてしまえば、ゲノム編集によって生命の設計図を好き勝手に弄ろうが、生命進化の系譜を破壊し、結果、既存の生態系を脅かし、人が生存できなくなるような最悪の未来が待っていたとしても、前後で「存在の状態」が変わったという程度の変化でしかない。
ゲノム編集による生命進化への影響も、自然から人工へと変化が起こっただけに過ぎない。。。
そこに、意味や善悪があると思うのは、人が物語を編む生物だからであり、世界に意味を見い出し、倫理を発生させ、既存の物語と相対化しているからにすぎないとも思ってしまうのです。
悲観的なニヒリズムとまではいかないつもりですが、そもそも、この世に普遍で不変の意味などというものはないと考えています。
しかしながら、この世が本質的になんの意味も持たない世界であるとするのならば、逆に、意味を作り、物語を編み、喜怒哀楽を生み出すことのできる人間とは、なんと尊いものだとも考えますし、この仕組みが存在として認識できる理由に思いを馳せることが出来ます。
生命進化も人が物語として編むからこそ、人にとって尊いもにもなる。
となれば、何を尊いと思い行動するのか、人の心根一つということになります。結果、ゲノム編集そのものというよりも人間性こそが、最も問われるべき問題ということに向かい、人間性の問題こそが、ゲノム編集に抱く抵抗感を生み出す深部に位置すると考えました。
Part3へと分けた抵抗感の所在の深部は、ゲノム編集による人間性への影響へと向かい、「抵抗感の所在」に対する一先ずの結論を見い出していきたいと考えています。
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