脚光の中のゲノム編集(Part3)抵抗感の所在とその深部へ、人間性に与える影響

ゲノム編集者は止まらない ゲノム編集
ゲノム編集者は止まらない

ゲノム編集に対して、Mauerが抱く抵抗感の所在として、次の7テーマをあげました。

1.人による編集行為
2.多様性への影響
3.改変スピードの高速化
4.誰でもできる
5.社会的な性急感
6.選択の自由
7.価値観の変容

Part2では①~④を生命進化への影響として議論してきました。

Part3では、残りの⑤~⑦の3テーマを人間性に与える影響として議論していきます。

抵抗感の所在とその深部へ

⑤社会的な性急性

ゲノム編集は、「DNAのハサミ」とも呼ばれるクリスパー・キャス9の登場以降、その簡易さから、急速に世界中へ広がり、更なる技術開発や応用分野への展開が活発に進められています。

そして、日本においても、遂には商用利用の段階へと進みました。

ただ、その展開の仕方を疑ってかかるように眺めれば、世界規模で進展する技術競争の中で、AIなどIT分野で遅れを取っている先進国日本の焦りのようにも見えて、違和感を覚えてしまいます。

そう感じてしまうのは、「届け出のみで安全審査の不要」や「表示義務の不要」など、言葉通りに受け取ると「甘くない?」と思ってしまう規制の掛け方に、違和感を感じ取ってしまうからでしょう。

また、ゲノム編集食品がもたらす恩恵の謳い文句として、「食料問題」や「気候変動対策」など、安全保障にも関わる有用な技術でもあるとする殺し文句も見受けられるようになりました。

貧困問題などにも触れる安全保障分野となると、確かに有用性も感じます。しかしながら、例えば、ラジ・パテル氏の著書『肥満と飢餓—世界フード・ビジネスの不幸のシステム』などに触れれば、問題の本質が、食料の生産量そのもというよりも、政治や経済などの社会構造の中に見出すことができ、ゲノム編集が対処療法的だとする反対意見についても納得できる面があるのは確かです。

いずれにしても、現代社会の諸問題につて、解決のための方法を一つでも多く用意できることは良いことだと考える一方、昨今のゲノム編集を取り巻く状況は、技術専攻に力点が置かれているように感じざるを得えません。

願わくば、提供する側は、受ける側の意見がどんなものであれ、反対意見を押さえつけることなく真摯に受け止め、粘り強く対応してほしいと考えるですが、技術競争下で覇を競う中、それがどれだけ果たされるのかについては、生命の根源を扱う技術だけに懸念を拭うことが出来ない所です。

⑥選択の自由

「選択の自由」などと言ってしまうと「自由」とは何かという哲学的な命題にまで、足を踏み入れるようで難儀なのですが、生命の根源に関わるゲノム編集のような技術にとって、避けては通れない課題なのではないかとも考えます。

勿論そこまで突っ込んだ議論がここで出来る訳ではないですが、せめて手にするモノがゲノム編集なのか否かについては、知りたいと思うのが、至極当然な手に取る側の心理ではないかと考えています。

ゲノム編集が登場した以上、当然ですが無かった頃には戻れません。恐らく、誰がどんな反対を示そうと、仮に破壊的な問題が起きたとしても、無かったことには出来ないわけで、少なくとも現文明や人類が絶滅するその時まで、ゲノム編集と向き合い続けることになると考えています。

その上で、少なくともこれくらいは実装しといてくれよと思うのが「表示義務」です。

手に取る対象が何者なのかわからなければ、選択の判断も、賛否表明も出来ないわけで、知らない間に個人の価値基準に反するモノを手に取り、利用するということになります。

そうならないための余地は、確保して頂きたいものです。

なお、表示義務のルールについては、ゲノム編集に限らず、常に感じる懸念があります。

表示義務があるはずの食品添加物や遺伝子組み換え食品についてさえ、状況によっては表示義務を免れることが出来ます。

また、ゲノム編集食品の安全性に関する説明で引き合いに出される従来の品種改良方法として、放射線や化学薬品による突然変異の誘発を例に出してきますが、そもそも、どれほどの人がこれを認知した上で受け入れているのでしょうか?

Mauerなどは、お恥ずかしい話し、水産分野からとは言え品種改良などについては学んでいたつもりでしたが、これらの技術利用によって、生み出された品種が食卓に流通している事実をつい最近まで認知出来ていませんでした。

また、食の安全性や生産地等に対して比較的シビアな判断をする妻でさえこの事実を知らずにショックを受けていましたし、付き合いのある農家さんでさえ認知できていない方もいます。。。

現代社会では、当たり前のように言われる「選択の自由」や「自由な意志」の尊重、そして場合によっては「つかう責任」も負うわけですが、そもそも私達は、何を基準に選び、その責任を負うことになっているのでしょうか?そして、「選択」を行う際の「意志決定」とは、どのレベルで「自由」だと呼べるでしょうか?

例えば、スーパーで何気なく手に取る商品についても、生活圏内の利便性、商品棚の見せ方、魅惑的な広告、近親者の好みなど、自分以外の外的な要因によっても多くを左右されて決定しているはずです。場合によっては、消費者心理を上手く読まれ、誘導されていることもあるでしょう。本当に「自由」に選んでいるといえるのか?疑問が生まれるところです。

そもそもを問えば、情報化が進む今日において、手に取る商品に使用されたあらゆるモノの原材料や産地等を知ることが出来るような一元化されていて、かつ利用者の誰もが容易にアクセル出来るようなデーターベースが、利用者の判断材料として最低限があってしかるべきなのではないかとも思います。

モノの安全性を問題視する以前の話としても、そういったことが、普段意識されず、見えない状況になっていることこそ、何かが歪んでいるのではないかと疑問が芽生えるところです。

意志決定の自由度を高め、気持ちよく責任を負うためにも、情報の透明性と誰にでも開かれたトレーサビリティーの実装こそ、本当に必要な技術革新ではないかと考えてしまいます。

こういったことは、SDGsで掲げる目標12「つくる責任、つかう責任」を果たすために必要な情報インフラではないかとも考えています。

⑦価値観の変容

「存在する」とは、それだけでなんらかの影響を与えるものです。

人類は、様々な技術革新の上に、価値基準を変容させながら生活し、歴史を紡いでいると考えています。ゲノム編集も同様に、登場以前の価値観に対して変容を迫ってくるはずです。

ましてや、生命の設計図を編集できる技術です。ゲノム編集は、おそよ20万年間つづいているホモ・サピエンスというハードをもバージョンアップさせる能力(飛躍し過ぎですが)を秘めているとも言えます。PCでいうとこのOS的なソフトに当たる人の価値観など、容易に編纂可能ではないかとも思われるのです。

なお、ハードやOSがどんなに変わろうとも、人間である限りは「幸せ」を求めることだけは変わりえないのではないかと考えているのですが、その「幸せ」を求める方法としての価値観は大きく変わっていくのではないかと考えるのです。

また、どうやらその「幸せ」を満たしていくためのコストは、時代を追うごとに上昇しているようにも思われます。

ノマド的生活形態で狩猟採集生活を送っていたかつての人類(ホモ・サピエンス)は成人まで生存できれば、肉体的には現代人より遥かに健康的な肉体を保持していたといわれます。これが、農耕を始めて定住するようになると、身の安全としての住居や食料問題を解決していくとはいえ、カースト的階級が始まり、下層に位置するものの健康状態事態は、悪化していったともいわれます。

そして、現代社会の特色といえば、支配的な消費社会の中で、便利なものを使い倒すことに幸福を投影しているように思われます。

今が悪く、昔の方が良かったなどの短絡的なことを言うつもりはありませんが、生活の質が技術的に改善したとしても、個人の幸福度などというものは、今も昔も大差はないのではないかと考える所です。

落ち着いた気持ちで振り返れば、最も幸せだと感じる瞬間などというものは、大切な人と心を通わせたと思う瞬間や、何気ない日常の中で子供が見せる仕草などに現れるもののように思い至ります。

また、時代々々に生まれた詩や音楽に触れ、そこに表現された美しさに感動を覚える瞬間などを体感すれば、時代ごとの特色はあるにせよ、共通した「幸せ」の存在のようなものを感じるときがあります。

つまり、これを基準に眺めれば、「技術革新」=「便利」ではあっても、「技術革新」=「幸福」にはなりえないと言え、人類の幸福度合が変わらない一方で、「幸せ」を感じるためのコストだけは、上昇し続けているのではないかと思われるのです。

そのインフレの行きつく先の「幸せ」とは何なのか?そのために変容していく価値観がどこへ向かおうとしているのか?不安が過るところなのです。

ゲノム編集は、生命に関わるあらゆる分野へ幅広く応用が可能な技術です。多くの恩恵をもたらすとも考えられる一方、宗教や思想、金銭などの何らかの理由で受けられない場合に、仮に事態が悪化する方向へ進んだのならば、恐らく恩恵を得られなかったことに対して、苦悩と後悔を生むことになるのではないかと考えます。

仏語をお借りすれば、「求不得苦」を増やし、「愛別離苦」を先延ばしにし、苦しみを増幅させもするように思えます。

「出来なかったことが出来るようになる」ということは、大変良いことだと思います。しかし、ある種の運命のような捉え方で、「ありのままを受け入れる」や「潔さ」というようなあり方は、失われているように思われ、これが「幸せ」のコスト高の要因としてウエイトを占めているようにも思われます。

これが良いのか悪いのかについては、まだ答えが出せていないのですが、だからこそこのモヤモヤ感が抵抗感として最深部に居座っているように感じます。

人間性へ与える影響

⑤~⑦を通して思うのは、ゲノム編集がもたらすものは、技術的な恩恵や問題だけではなく、これと付き合っていくために人間そのものの心的な変容も求めているように思われます。

⑥の議論でも少し触れましたが、ゲノム編集をなかったことには出来ません。その技術的な利用価値の高さからも、今後も多くの研究者、技術者にバトンが渡され、開発はさらに加速していくことでしょう。

今後、ゲノム編集が紡いでいく未来は、私たちの「幸せ」にもどように作用していくのでしょうか。

これは、Mauerにとってもっとも気なる問かもしれません。

未来がどうなるかは来るまで分からなものですが、ゲノム編集を活用しつくした先の人類とは、現在の人間とは掛けな離れたものになっており、仮に外見は同じだとしても、人間性や人間らしさと呼ばれるようなものが変容し過ぎていて、別種になっている可能性もあるのではないかと考えています。

例えば、仮に、AIや量子コンピュータの発展と共にゲノム編集を応用しながら、生態系を完璧に管理できるとすればどうでしょう。また、安全に思いのままに人間をデザインできるとしたらどうでしょうか。問題への対処も含め、これらを完璧にコントロールできるとするならばゲノム編集は有効と言えるのでしょうか。子供は「作る」から「デザイン」するとなった場合の人間性とはいかなるものでしょうか。

明らかに、妄想じみていて飛躍し過ぎではありますが、安全性を求めつつ究極的な応用を突き詰めるというのは、こういった完璧にコントロールできる世界を望むことのようにも思えます。

しかしながら、そのような世界で生きることの幸せとはなんでしょうか?そんな世界を楽しめる姿が全く想像が出来ませんし、あまり魅力があるようにも思えないのです。

答えの出せない悩ましいテーマだということだけは分かるわけですが、現状としては、Mauerの日常の中にゲノム編集は不要だと感じていますし、そして、ゲノム編集を知らずの内に手にしないよう選択の余地だけは持たせて欲しいと願うのみです。

また、自然生態系へ開放した形での応用には、慎重かつ細心の注意を払って頂きたいと願います。いっそ、火星への移住など、テラフォーミングを進める際には、大いに有効ではないかと思うところもあります。

いずれにしても、Mauerが抱くゲノム編集への抵抗感の所在は、その深部において、答えの出せない価値観の変容にともなう「幸せ」の在り方の行く末に不安を抱くという感情的な抵抗感を持ち合わせていることは分かりました。

ただ、結果的に「昔がよかった」としがみついているジジイのようだなと、我ながら思うところですが、そんなみっともない自分を一先ずは受け入れて、今後のゲノム編集の動向を追っていきたいと考えています。

おわりに(議論は続く)

自身の抵抗感の所在は見えてきたように思います。

しかしながら、まだまだ勉強不足であることも感じました。

今後のゲノム編集の動向を追いつつ、新たな展開や吸収した知識から、多角的にこの問題について考え、議論を展開していければと考えています。

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