『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』避けたくも美しい...景色が変わるステキな一冊

MBS

湯澤規子

人糞地理学ことはじめ

ウンコはどこから来て、どこへ行くのか

ちくま新書(2020)

避けられない問い

人工生物圏構築に励む以上、突き詰めて行くことで必ず向き合う日が到来すると心しているテーマがあります。

そう、「ウンコ」の話。それも人糞についてです。。。

Mauerが現状行っている取り組みは、生ゴミを原料とした生態系構築ですが、生ゴミを再利用可能な原料にしてくれるのは,ミミズを中心とした土壌生物の働きであり、彼らの排泄物、つまり「ウンコ」になることで優れた肥料へと転換されているからこそ、成り立つ仕組みとなっています。

持続的な物質循環を実現させるためには、「ウンコ」とは必須の機能であり、工程と言えます。

その意味では、既に「ウンコ」を積極的に扱っていることに変わりは無いのですが、ここに人糞という存在は介在させてはいません。

小さなベランダで、プランターや水槽を舞台に展開している限りでは、介在させる必要もないわけですが、今後、規模を広げた人工生物圏構築の究極的姿を描くなら、人を入れた循環を考えることは、当然とも言えますし、本来的には避けては通れない課題の一つとなるはずです。

が、人糞の利用を考えるとき、正直な所、抵抗感は大といえます。だからこそ、小さな舞台で、小さな土壌生物達の活動に注目している現状の限りにおいて、人糞を巡る問いについては、心の片隅に追いやり、見ないようにしていたのが正直な所でした。

しかしがら、避け、追いやり、見ないようにしているだけでは、その問が消えて無くなることは決してなく、”在り”続けることに変わりありません。

だからでしょうか、書籍散策中に本書タイトルをキャッチすることになりました。

「ウンコはどこから来て、どこへ行くのか」このタイトルとの出会いを機に、避けてきた問いと向き合うために、人工生物圏構築を巡る想いを乗せて、本書を読み進めることにしました。

概要

本書は、タイトル通り、最初から最後まで「ウンコ」をテーマとした議論が展開されます。

「生きる」をテーマに地理学、歴史学、経済学の視点から、当たり前の日常を問い直すフィールドワークを重ねている著者。ウンコの歴史研究もその一つのようです。

著者は、住宅設備メーカーでトイレの製品化を担当し、ケニアで肥料生むトイレとして、「循環型無水トイレ」を開発し、その肥料を野菜作りに使うサイクル構築を目指す女性開発者Yさんと出会います。

ケニア都市部のスラムや田舎を中心に今でも普通に行われるというフライング・トイレット(空飛ぶトイレ)とは、排泄物を入れた袋を戸外に投げ捨てる行為で、これにより公道が排泄物だらけになっているとのことです。

家から離れた場所に作られるいわゆる「ぼっとん便所」への夜中のアクセス中に受けてしまう性的被害を避けるための行為であり、切実で深刻な問題となっています。

この問題を解決するため、下水道の整備が進まない地域でも利用可能な「循環型無水トイレ」を開発。

しかし、普及の段階に至って生じた問題が、「日本で衰退した技術をなぜ今ケニアに普及させようとするのか」という反論や反抗への直面でした。

「排泄物を肥料に」、「日本では昔からやってきた」というと聞こえはよいが、なぜ、そのような仕組みが、現在の日本で機能しなくなったのか?

そういった問い含め、持続可能な社会の実現を考える議論においてウンコの歴史研究が重要な役割を担うということを、サブタイトルに『人糞地理学』とあるように、日本の古事記に始まり、歴史、地域文化、経済から、紐解いていくストーリーとなっています。

持続可能で豊かな生活と食を考える人工生物圏研究所としての取り組み続けて行く上でも、重要な示唆を得たと実感し、Mauerにとって大切な一冊となりました。

本書の魅力

”価値判断”への問い

人工生物圏構築の上で、人糞利用の可能性について触れてこなかった根底には、人糞を取り扱うことへの嫌悪感、”ウンコ=汚い”という短絡的な認識の表れであったからではないかと反省するにいたりました。

――おそらく今日の日本では、ほとんどの人がウンコを「汚い」モノとして認識しているといってよいだろう。

 しかし、その歴史を振り返ると、ウンコは中世には「畏怖」され、「信仰」され、近世・近代には、「重宝」され、「売買」され、「利用」され、近代・現代には「汚物」と名づけられて「処理」され、「嫌悪」され、その結果「排除」され、そして「忘却」されつつ今日に至る。

私たちの価値基準が転倒し、人間とウンコの関係が変化する中で、ウンコの評価も位置づけも揺れ動いてきたということができるだろう。そして、この変化の過程で次第に「汚物」として位置づけが確立され、ウンコに対するスティグマ(汚名)は強化され、私たちの認識の中で、それは拭いされないものとして固着してきたものだと分かった。

 今日の日本で、ウンコがかつてのように農地に還ることは困難になった。しかし、それはウンコが汚いからなのではなく、むしろ、私たちの食べものや下水道に流すものが変化した結果であった。だから、物質的な豊かさ、時間を節約する便利さ、衛生的な暮らしを求め続ける私たち自身にもその責任があるということを、あらためて考えてみる必要は、やはりあるのだと想う。

本書P194

本書より、特に江戸において、都市と近郊農村との間に都市廃棄物の還元を巡って巨大で周到な地域システムが形成されたことにより、その人口を養うために、安価に購入、あるいは自給出来る下肥(人間の糞尿)が盛んに利用されるようなったことを知るのですが、これが、明治、そして大正へとさらなる人口増加や産業化及び経済発展に伴い、機械化・効率化がなされる中で、お互いの直接的な関係性が分断され、価値判断も変容していったことがよくわかりました。

象徴的な詩が引用されています。大正時代の農村で土を耕す青年、渋谷定輔の詩、「沈黙の憤怒」です(長い詩なので少し割愛しています)。

「沈黙の憤怒」

――夜は二里ほどもある停車場へ糞尿ひきにいくおれだ

サクラの散ったあとには

たまらなく気持ちのいい色の若葉が

街燈に照らされて

キラ キラ キラ キラ

もれこぼれそうに生い茂っているのさ

バカなおれたち百姓に

安く仕入れた肥やしやいろんな日用品を高く売ってだ

おれたちが作ったものは

こけまかせに安く買ってだ

もうけてもうけぬいている町の人らは

それこそのんきそうに若葉の下をぶらついているのだ!――

――と ほろ酔い気分の一軍の男女が――

――コケっぽな奴だねきみ 百姓なんて!

  夜こんなにおそくなって糞尿なんかひきにいくんだからよ

  ねぇおまえ――

――え ほんとですは

――よっぽどほかのことができないものでなくてはやれないねあんなこと・・・・・・

――そう

  まったくぼくらのようなものには

――え 実際こけっぽだわねぇ

  もしわたしたちやあんたらが一時間もあんなことしたらキット死んでしまいましょうねぇ

――ああ

  ぼくらは第一人間がちがうんんだから

――アッハハハハ・・・・・・

こんなかぎりない嘲罵と冷笑を浴びながら

内部にさか巻く熱い血汐と

魂の憤怒とをじっとこらえて

夜十時過ぎに停車場へ糞尿をひきにいく

おれは純粋の土百姓小作人

青年牛方 渋谷定輔だ!

本書P97ー100

この詩に対して著者は、次の様に述べます。

この詩には、間違いなく日々糞尿をし、農村で生産されている作物を食べているはずの町の男女が、本来「自分事」であるはずの糞尿の運搬とその担い手を、まるで「他人事」のように嘲笑するという構図が垣間見える。町の男女からすれば、ウンコは「糞」ではなく、汚れて無用な「屎」でしかなかった。誤解を恐れずにいえば、これは「土」から離れ、自分たちで作物を生産せず、もっぱら消費する人びとが増えた社会の到来を背景とする、ウンコと人間の関係史における構造的変化の一端なのではないだろうか。

――それは「都市のまなざし」からウンコを「他人事」として認識しようとする姿勢であるように思われるのである。

本書P101-102

これは、ウンコだけではないでしょう。子供の頃は平気であったはずの虫や土汚れも、いつしか虫を「気持ち悪い」、土が付いた靴を「汚い」などと感じるようにもなっていました。

小さなプランターながらも家庭菜園を始めることで、土を扱い、ミミズなどの土壌生物を扱うことで、その感覚は、弱まり、土を触ることに喜びを感じるようになって来た所ですが、この感覚こそ、本書が示すように、分断されていた関係性を取り戻すことで蘇った感覚なのではないかと、実感しているところです。

トイレットペーパーから見る生き方への問い

ウンコにまつわる話の中にトイレットペーパーにまつわる興味深い話も登場します。

お尻を拭く行為について、トイレットペーパー以前と以後の歴史です。

トイレットペーパー以前とは、ちり紙などの話だけではありません。地域で手に入るあらゆるモノが利用されていたようで、蕗や藁などの葉の利用だけでなく、海藻、枝、木片など多様なモノが、利用されていたようです。

――お金を出してトイレットペーパーを手に入れるより、時間と手間が掛かるこの営みを、なんと意味づけしたらよいだろう。ともすると、「不便」で「面倒」、そして「不潔」と説明されてしまいそうではあるが、一つひとつの語りから、季節の風情と風土に根ざして生きる安定感が確かに伝わってくる。

 ウンコを拭くことに、季節の風情が関わってくるとは思いもしなかった。トイレットペーパーが無くなってしまったら、もしかしたら、もう一度そんな世界に目が開かれるかもしれないと思うと、不安は消えて、むしろ楽しくなりはしないか。

本書P177

トイレットペーパーの世界的な普及に対する著者の考察にも目を開かされます。

――こうしたトイレットペーパーの普及は、衛生技術や衛生観念の世界的な普及、同一商品の世界的な流通などが実現した成果とみることもできる。しかし、それは一方で、「生きること」に関わる考え方、姿勢、信条、行動、価値判断、技術、制度などが徐々に、しかし確実に一色に塗り固められていく世界規模の大転換であるようにも思え、私は一抹の不安を感じずにはいられないのである。

本書P191

ここに共通して見られるのは”不快の即時排除”ということになるのでしょうか。

こういった図書を通じてでしか、かつての”遅れた?”、”野蛮な?”時代の風情などをうかがい知ることが難しいと感じる所ですが、機械化による効率化に伴い、「遅れている」、「非効率」、「非衛生的」と排除された所に、学ばなければならないコトが多々あるのではないかと考えさせられるところですし、これらがローカルな知恵であるだけに、実は手を伸ばせばすく手に入る距離感にあるのではないかと考えると、嬉しく思うところです。

人口生物圏×ウンコ

本書を通じて「ウンコ」について、色々と考えさせられている所ではありますが、例えば、その利用において「不快感」が消えるまでに、一体どれ程の処理工程が必要で、どこまで簡素化できるのだろうか?などと興味が湧くところです。

例えば、私自身の人糞を、自身の畑に利用しようと考えたとき、どれだけの行程を辿ればこの「不快感」が消えるのか?

もしくは、その行程そのものが見えていると「不快」だと感じてしまうのでしょうか?

「見えていない」とは、本来恐ろしいはずですが、、、

そんなふうにも考えさせられました。

いずれにしても、特に人糞を利用するというのは、それが有効であったとしても簡単なことではないでしょう。

本書でも触れる通り、人の糞尿利用が盛んであった江戸でさえ、海外から来た人々にとっては、耐え難い臭気であったようですし、Mauerが生活している上越地域においても、60代以上の農業経験者の中には、中学生くらいの頃に糞尿を汲みを行っていた経験をお持ちの方が居ますが、大変に骨の折れる仕事だったと聞きます。

そもそも、野生動物等に比べても、栄養が豊富な人糞の堆肥化には、年単位の時間が掛かるようです。

また、調べて知ったことですが、上越市の下水処理場において、処理された糞尿の汚泥を肥料製品化した「エコプン」などと呼ばれる商品が販売されていました。

人糞利用を始めるとすれば、「エコプン」などと行った製品から利用することも良さそうだと考えられます。が、今のところ、いざ行うとなると家族からの抗議も受けそうなので、中々ハードルが高そうですね。

いずれにしても食用外の栽培からでしょうね。。。

おわりに

しかしながら、子供とは「ウンコ」など下の話が大好きで、我が家の子供たちも、例に漏れずといったところです。そんな彼らの好奇心をそのままに、「ウンコ」というワードが少なくなるのに合わせて、こういった図書から「ウンコ」の世界に引き戻し続けていきたいと思いました。

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